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学佛是否需要舍离一切的欲望? [日语] 仏教を学ぶために全ての欲
2018-11-12 12:38:43  类别:外文文稿
各位菩萨:
阿弥陀佛!
欢迎大家再次收看“三乘菩提之学佛释疑”。今天我们要跟大家谈的题目是:学佛是否需要舍离一切的欲望?之所以会有这样题目出来,最主要是因为许多人对于佛教有非常负面的印象,认为佛教不仅是一方面叫人家舍弃所有的欲望;另外一方面,看起来又好像不能够善尽社会的责任,逃避一切社会的责任一样。所以,我们今天应该要藉着这个场合,来跟大家说明这个基本的差异。
皆様:
阿弥陀仏!
「三乗菩提-仏教を学ぶ際の疑問を解く」シリーズをご視聴頂き、ありがとうございます。本日、皆様とお話したいテーマは、仏教を学ぶために全ての欲望を捨てる必要がありますか。この疑問をテーマにした主な理由は、多くの人々は仏教に対して非常にマイナスのイメージを持っていると感じられるからです。どういうことかというと、仏教が人々に全ての欲望を捨てさせるだけではなく、社会的な責任を負わず、全ての社会的な責任から逃れているのではないかと感じる人は多いと思います。我々は今日この場を借りて、この疑問に対する基本的な差異を説明しましょう。
 
首先,我们先来看看,我们说所有的修行其实如果从解脱的立场来看,不外乎是要排除烦恼、对治烦恼,那么烦恼有许多时候都是由于贪欲所引起;所以,其实在世间的许多的宗教,只要谈到所谓的烦恼这些事情的时候,也都是以贪欲作为要对治的目标。
まず、全ての修行に対して解脱の立場から見ると、煩悩は排除するもの、対治する対象になります。煩悩は貪欲から引き起こされることが多いので、世の中の多くの宗教は煩悩について言及する際、貪欲を対治することを目標としています。
 
比方说----神教来讲,比方说基督教、天主教。他们也在教信徒,希望信徒不要完全着重在世间的这些荣华富贵,而是要把天上所谓的上帝身边的这些荣华富贵,当成真正的荣华富贵,要能够摒弃世俗的东西,勇于去追寻上帝的脚步,按照上帝的指示去做事情。这是----神教。
例えば----神教の場合、キリスト教やカトリック教会では、信徒に世間の栄耀栄華を重んじてはいけないと教えており、天にいる上帝の周りの栄耀栄華を本当の栄耀栄華とし、世俗の物事を捨て去り、敢然と上帝の足取りを辿り、上帝の指示に従って物事を行うことを教えております。これは----神教であります。
 
那么东方呢 ? 移到东方来看,东方的印度教其实也有异曲同工。比方说,东方的印度教其实吸取了部分佛教的名词,他们也在说世间所有的一切其实都是幻化的,所以大家不应该费很大的力气去执着这些幻化的事物,而应该清净少欲,才能够跟真正的“梵”合而为一等等。像这类型的说法,在印度教里面也是屡见不鲜的。
次に東洋の宗教を見てみましょう。実は東洋のヒンズー教も異曲同工です。例えば、ヒンズー教は仏教の言葉を一部吸収し、世の中の全ては幻化するとも主張しています。幻化する物事 に執着すべきではなく、清浄であることや少欲知足に励むことによって本当に「梵」と「我」の 融合合一がなされると教えています(梵我一如の思想:インドの哲学書ウパニシャッドに代表されるバラモンの根本思想で、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個人の本体であるアートマン(我)とは同一であるというもの)。このような見解はヒンズー教においてよく見られます。
 
再来看看中国的本土,有所谓的老庄道家。在老庄道家里面,其实关于少欲、知足常乐这方面的教诲其实也很多。比方说,老子就认为说,追求外面的物欲,比方说色、声、味等等,如果一味地追求的话,反而会让我们的眼睛看不到真正的东西,耳朵听不见真正的声音;所以像这样的结果,追逐外面的五欲的结果,反而会使得人丧失了灵性;不能够知足少欲的话,就会因为我们五项感官的盲目,接下来就会引起了许多的灾难。所以在老庄道家里面也是教大家要少欲知足。所以,从这一点立场来看,的确在世间里面许多的宗教,也确实都教大家要远离这些欲望。
また中国本土の荘子道家を見てみましょう。荘子道家において、「少欲」と「足るを知れば常に心楽し」ことに関する教えも多いです。老子は外の物欲を追求すれば、例えば色、声、味等をむやみに追求すれば、却って我々の目には真実の物事が映らなくなり、耳には真実の声が聞こえなくなると考えました。このように外の五欲を追い求めた結果、人の霊性が失われ、「少欲知足」がなされないことにより、五つの感官が麻痺してゆき、盲目になってしまうことによって多くの災難が引き起こされます。ですから、荘子道家においても「少欲知足」を教えています。この立場から見ると、確かに世の中の多くの宗教では信徒達にこれらの欲望を遠ざけるように教えています。
 
那佛教本身呢?如果从最浅最浅的层次来看,当然就希望说,大家也要减轻欲望。比方说,佛教在教大家要除性障的这件事情,性障里面其中一个很主要的项目,就是你要对治个人的这些贪欲。如果我们再更进一步来看,佛教的经典里面,也有所谓的少欲知足的记载。比方说在《杂阿含经》里面,佛陀就曾经称赞过大迦叶尊者,说他少欲知足,头陀第一;或者,佛陀也曾经称赞过尊者舍利弗,说他持戒多闻,少欲知足。所以,少欲知足的这件事情,的确在某种的程度上来讲,也是对于行者修行得力、降伏性障的一个称赞之词。
それでは、仏教自身はどうでしょうか?最も浅いレベルから見れば、もちろん欲望を減らすことです。例えば、仏教において、性障を取り除くことを教える際に、性障の中で重要な項目-自分の貪欲に対して対治すると教えております。更に見れば、仏教の経典の中にも所謂「少欲知足」の内容を記載しています。例えば、《雑阿含経》の記載によると、仏陀はかつて大迦葉尊者の少欲知足を褒めていました;また、仏陀は舎利弗尊者が戒を受持し、多聞(正しい教えを多く聞き、それを心にとどめること)で、少欲知足だと尊者を称賛しました。ですから、「少欲知足」は、ある程度修行者の修行が効果的になり、性障を降伏したことに対して称賛の言葉であります。
 
可是在佛教里面,谈的这些关于解脱方面的道理,其实它的层次是远远超过所谓的少欲知足的层次。因为少欲知足可以让我们减少目前我们所碰到的世间烦恼,可是少欲知足的这个状况、这个修行,并不能够、并不足以使我们能够超脱三界的生死。这里面的道理,当然就牵涉到宇宙世界的结构,所谓的六道轮回的道理,所谓的有情生灭轮转的真相。因为这些真相的关系,所以光是少欲知足,我们是没有办法出得了三界的;实际上也没有办法真正解脱,完全的解脱烦恼。所以,如果谈到极致来讲,真正谈到极致来讲,比方说在《阿含经》里面,就有提到了所谓的“厌离、离欲、解脱”这些看起来是非常究竟的字眼。当然,细心的观众听到这里可能会觉得说,那岂不是坐实了说佛教就是要叫人远离一切的欲望吗?关于这个我们要进一步再来看。
しかし、仏教における解脱についての道理というものは 、実は少欲知足のレベルを遥かに超えています。少欲知足によって、我々が直面する世間の煩悩を減少させることができますが、少欲知足の修行は三界の生死を超脱するのに十分ではありません。この中の道理というものは 宇宙世界の構成に関わり、所謂六道輪廻の道理、有情衆生の生滅輪転の真相に関連しています。これらの真相があるので、少欲知足だけでは三界から脱出することができないばかりか、煩悩からさえも完全に脱出することはできず、つまり本当に解脱することはできないのです。従って、極めて言えば、例えば《阿含経》の中に言及されている「厭離、離欲、解脱」の言葉は非常に究極的な言葉であります。ここまでの話を注意深く聞いてくださった皆様は当然「仏教はやはり人々を全ての欲望から遠ざけている」と思われるでしょう。これについて、我々は更に詳しく見てみましょう。
 
我们说在佛教的修行来讲,可以选择出家,也可以选择在家修行。以前我们曾经听到有部分的团体在说:“只有出家人才能修行,在家人只能够护持出家人,在家人这一辈子并不适宜直接修行的。”这种说法呢,其实是违背了佛教的精神的。因为光是在佛陀的时代,在家修行的菩萨就非常非常的多;所以,绝对没有所谓的在家人不能够修行,只能护持出家人的道理。实际上应该是要讲,出家、在家是不同的修行途径,各有其利弊得失。
仏教の修行においては、出家を選んで修行してもよいし、在家を選んで修行してもよいのです。以前、我々は「出家した僧侶だけが修行に励むことができ、在家人は出家した僧侶を護持するしかできない」と一部の団体が発言したのを聞いたことがあります。このような言い方は、実は仏教の精神に違背しています。なぜならば、仏陀の時代でも多数の菩薩が在家で修行を行っていました。よって、所謂「在家人は僧侶を護持することしかできず、在家では修行ができない」という道理は絶対にありません。実際には、出家と在家は違った修行の方法であり、それぞれの利害と損得があります。
 
如果选择出家的这条路径的话,也就是大家常会看到的一般的出家人,要把须发剃尽,然后要换上修行的法服,然后要住在寺庙里面;并且要严持所有的、一切的声闻的戒律,这个就是所谓的出家的写照。各位观众请想想看,因为我们谈到了出家,既然出家的话,当然这里面所谓的一般世间男女之间的感情、亲子之间的感情,乃至于说社会上、在职场上面打拼的这些种种的积极进取,一旦我们如果谈到出家的话,当然这些的事情,在出家的前提之下,就没有继续再深谈的必要了,因为他毕竟就出家了嘛!所以,就出家的这条路来讲,的确他精进修行的其中一个指标,就是会远离这些欲望的状况。
もし出家という修行の方法を選べば、つまり皆様が見たように一般的な僧侶になり、ひげも髪の毛も全部剃り、修行の法服に着替え、お寺に住み、また全ての声聞戒を厳しく受持します。これは所謂出家の克明な描写であります。テレビの前の皆様、お考えください。ここでは出家のお話をしているので、それを前提に考えると、当然世の中における男女の愛情や、親子の情、ひいては社会や職場で積極的に向上することについて、深くお話する必要がなくなるでしょう。なぜなら出家をしているからです。出家の修行方法において、確かに修行に精進することで達成する目標の一つはこれらの欲望を遠く離れることです。
 
可是我们刚刚也提到,有一个另外一个大的修行的途径,叫作在家菩萨的修行的途径。既然在家的话,显然菩萨们跟所有的世间人一样,都会有眷属的,所以,同样也会有夫妻之间的感情,同样也会有亲子之间的感情;同样地,菩萨们在社会上,是不是一样能够积极进取呢?实际上的状况是,往往同样也能够积极进取。这个是为什么呢?最主要是因为说,如果选择在家修行的话,我们首先要认知的是说,我们在家修行的时候,就不是为了远离欲望而去远离欲望,不是为离欲而离欲;而是为了不让烦恼干扰我们的修行,我们才要对治这些欲望。比方说,当我们如果对于世间的名利一味地追求,乃至于说我们常常会忘记了本心,往往在追逐名利的时候,人整个就陷入名利的漩涡里面的时候,这个时候当然就应该要好好地去对治关于名利的欲望。可是,如果说我们的心虽然在红尘里面,可是我们对于名利是淡泊名利的;而我们也知道,我们在做这些世间法的同时,实际上有一个更高的目标,有更高的指导原则,那就是菩萨道与众生同事的道理;我们藉由这个生生世世跟众生同事的道理,然后一边自己修行,一边也能够跟众生广结善缘。像这样子,有了中心的思想,有了目标,有了原则之后,菩萨在名利里面不会迷失自己的话,那又何必刻意去把世间所有的一切全部都排除呢?所以,各位会经常看到,往往大菩萨们在世间里面,也一样是会展现出积极进取的一面;但是这一面呢,却是跟一般的世俗人,为了名利而去追逐的状况是截然不同的。
しかし、我々がさきほど言及したように、もう一つ良い修行方法があります。それは在家の菩薩の修行方法であります。在家である以上、当然全ての世間の人々と同じように家族を持ち、夫婦間の感情や、親子の情も同様に持っています。では、菩薩達は社会の中で積極的に取り組んでいるのでしょうか?実際の状況は、菩薩達も往々にして積極的に取り組んでいます。なぜなら、もし在家で修行することを選択すれば、まず認識なければならないのは、欲望を遠ざけるためには物理的に欲望から遠く離れるのではなく、煩悩によって修行が妨げられないよう自分の中の欲望を対治しなければならないからです。例えば、我々が世間の名利を一心に追求すれば、自分の本心を忘れ、名利ばかりを追い求めて、自分の全てが名利の渦に陥ってしまいます。この時こそ、きちんと名利に対する欲望を対治すべきです。我々の心は紅塵にいますが、名利に対して淡泊であり、更に世間法をやり遂げると同時に、もっと高い目標や指導原則を持つことができます。即ち菩薩道が衆生と同事(四攝事の一つ--同事攝である。同事攝:形を変えて人々に近づき、同じ仕事に勤しむこと)する道理を知っています。我々は生生世世に衆生と一緒に同事する道理に従い、自ら修行しながら衆生と広く善縁を結びます。このように、中心的な思想と目標、原則を持った後、菩薩が名利においても自分を見失わなければ、刻意に世間の全てを排除する必要があるのでしょうか。ですから、皆様は大菩薩達が世間と積極的に関わる場面をよくご覧になるでしょうが、しかしこの一面は一般の世俗の人々が名利を追い求めるのと明らかに異なっています。
 
再来,我们再讲到关于所谓的男女夫妻之间的感情。菩萨如果了解到说,我们是为了要对治烦恼,所以才要降伏欲望的话,那么对于男女之间的事情的分寸的拿捏,也就能够了然于心了;不必刻意去排除所有男女的感情,只要他继续能够符合在菩萨道上修行的原则跟修行的这些目标的话,那么男女之间照样也可以有感情的。
また、所謂男女夫婦間の感情についてお話をしましよう。我々が欲望を降伏することは煩悩を対治するためであると理解するならば、男女の間のことに対しても程合いを心得ることができるでしょう。刻意に全ての男女間の感情を排除する必要はなく、菩薩道での修行の原則と目標に適えば、男女の間の情を持ってもよいです。
 
再来,关于亲子之间的话,既然在家的话,选择在家修行的方式的话,既然也有了眷属了,亲子之间的这些感情是必然会有的事情;并且亲子之间的照料,也是本来就应该要做的事情。
そして次に、親子の間の情に関してお話をしましょう。在家で修行する方法を選択すれば、家族を持つようになり、親子の間の感情も必ず持ちます。また、親が子の、子が親の世話をするのも本来すべきことであります。
 
所以,我们这样看起来,就是说如果选择的是在家菩萨的这条路的话,只要知道说整个在家菩萨的修行所为何来,把这一点原则把握清楚之后,再怎么样在红尘里面也就不会迷失自己了。当然这里面有一个很重要的关键,非常非常重要的关键,要先提醒大家:就是菩萨要做到这样子的话,如果光只是喊一喊口号的话,你很容易也会在许多的世间考验里面会丧失道心、迷失了自己;其中很关键的地方是要在于,对于我们在佛教里面教义上所讲的佛菩提道跟解脱道,要有正确的认知,比方说,解脱这个方面来讲,要对于解脱的原理要有正确的认知;那这样子的话,才不会很容易的就迷失了。
従って、これらを見ると、もし在家菩薩になるという修行の道を選ぶのであれば、在家菩薩は何のために修行するのか、この原則をはっきりと自身で把握できれば、どんなに紅塵の中にいても自分を見失ってはなりません。この中には非常に重要な一つの鍵があり、皆様にこれについて注意を促したいと思います。菩薩が在家として修行をやり遂げたいと思っているとき、スローガンを叫ぶだけならば、多くの世間の試練に対して道心を失いやすく、自分を見失ってしまうことでしょう。その中で、最も肝要なことは、仏教において菩薩道と解脱道の教義を正確に認識することであります。例えば、解脱の面において、解脱の原理を正確に認識していれば、容易に自らを見失うことはありません。
 
另外就是说,由于是在家菩萨修行的关系,所以对于在家菩萨来讲,如果能够破参明心的话,对于在家的修行将是一个非常非常大的助益。为什么这样讲呢?那是因为说,如果是出家菩萨来讲,因为出家的环境本来就是完全为了解脱修行而设计的,这实际上也是佛陀的善巧方便;而在家的菩萨,既然选择在家修行了,那表示说很多时候都得要靠自己。也就是说,很多时候除了自己之外,周围的环境可能都跟自己修行的目标有所违背。这个时候,我们如何能够在这样有这个难处的环境里面,仍然能够把握住修行的方向呢?如果我们能够破参明心,找到了人人本来都有的清净本心的话,我们就有机会能够在周围所有的一切的环境里面,一切的境界里面,可以体会到真心是如何清净地运作;一旦能够做到这样子的话,不管是怎么样的考验,其实只要能够转依,只要能够转依了这个清净的本心,所有一切的这些欲望都不会再变成了困扰的所在。
また、在家として修行し悟りを得ることができたなら、これは在家の修行に対して非常に大きな助けと利益につながります。なぜでしょうか。出家の菩薩であれば、その出家の環境は完全に解脱の修行のために設計されており、これも仏陀の善巧方便であります。在家の菩薩は在家の修行を選んだ以上、多くの場合は自分に頼らなければなりません。つまり、自分を除いて、周囲の環境が自分の修行目標と違背している場合は多くあります。この時、我々はどのようにしてこのような困難な環境の中で依然として修行の方向を把握できるのでしょうか。もし我々は悟ることができれば、人々が本来持っている清浄な本心を見つけることができれば、あらゆる周辺の環境の中で、あらゆる境界において、真心がどのように清浄に作動するのかを体得できます。このようにどんな試練を受けても清浄の本心に転依(所依を転じること)できれば、全ての欲望に惑わされることはなくなるのです。
 
所以,我们说在家菩萨的修行,可以不必远离所有的欲望;并且,如果能够真正破参明心的话,对于在家的修行是很大很大的帮助。
ですから、在家菩薩の修行は全ての欲望から遠く離れる必要はなく、また、もし本当に悟ることができれば、在家の修行に対して非常に大きな助けになります。
 
我们也顺带的再藉这个机会要告诉大家,从这个道理来看,我们也可以来印证:整个完整的佛法,除了解脱道之外,也必定会有佛菩提道。为什么这样讲呢?我们刚刚说过,修行解脱道最有利的方式就是采用佛陀为我们所规划的方式,也就是出家;如果你不按照这个方式的话,当然困难就会比较高,但不是不可行,只是困难比较高。可是不可讳言的,如果这个社会上每一个人都出家了,每一个人都出家了之后,如果这个情况推到极致的话,很显然这个社会上就不再有男女,不再有夫妻眷属,也就没有亲子眷属了。当然,大家都出家了之后,社会上的这些一切的士农工商,恐怕做的人就少之又少了。当然,现在我们可以看到,最近许多的佛教团体实际上非常积极地参与世间的事务;可是,不管是再怎么积极参与世间的像这些行善的事情,那出家毕竟就是出家。所以刚才我们讲的,基本上的关于夫妻、亲子、眷属之间,关于社会上的士农工商的这些事情,一旦大多数的人都出家之后,这些事情恐怕维系上面就会变得很吃力了。如果一代又一代,一世又一世,每一世都是只有出家的话,也可以想像到的是说,这个佛法的住持到最后都会成问题。因为一世一世的修行,会让人很容易就在解脱道里面成就了最后四果阿罗汉的境界;到了四果阿罗汉的境界之后,很容易的就随顺了涅槃的境界,会入于无余涅槃;一旦所有的人都成就阿罗汉果之后,这个世间接下来也就是没有佛法可以住持了,剩下都是不得闻佛法的众生了。所以,从这一点来看,我们说就世间的运转来说,乃至于就佛法的这些维系跟弘扬来看的话,其实在家的菩萨们才是主力,因为在家的菩萨们维系了世间一切正常的运转;在家的菩萨们更由于破参明心、证悟了清净本心的关系,能够在红尘中一边修行,一边又不会迷失自己。所以,在家的菩萨们可以从各个角度,广与各层次的众生接触,来达到摄受众生的目的,这样子才是真正的把佛法带给每一个众生。所以从这里来看,我们说佛陀所教导的道理里面,不会只有解脱的道理,一定是必然有佛菩提道,也就是成佛的道理在的;因为这个才是佛法能够普及、利益所有众生的根本。
この機会を借りてついでに皆様に伝えたいのは、この道理からみれば、我々が実証できるのは、仏法において、解脱道の他に必ず仏菩提道があるということです。なぜでしょうか?さきにも言及したように、解脱道の修行に最も有効的な修行方法は仏陀が我々のために用意された出家の方法であります。もしこの方法を選ばないとして、その他の修行の道は非常に困難で難易度の高いものになるものの、決して達成できないものではありません。しかし、もしこの社会で人々がみんな出家してしまったら、またこの状況が極端になれば、この社会からは男女の存在がなくなり、夫婦や家族の存在もなくなって、親子眷属もなくなります。言うまでもなく、みんなが出家してしまったら、社会で士農工商に従事する人もなくなるでしょう。もちろん、最近の多くの仏教団体は非常に積極的に世間の活動に参与していますが、世間の活動に参加し善行を行ったとしてもそれはそれ、出家は何といっても出家であります。ですから、基本的に夫婦、親子、家族の間に関して、また社会における士農工商の事情についても、多くの人々が出家してしまったら、世間一般の社会活動を持ちこたえるのが難しくなります。もし一代一代と世々に出家すれば、最後に仏法の住持も問題になると想像できるでしょう。一世一世の修行は解脱道の最後四果阿羅漢の境界に成就しやすいです。四果阿羅漢の境界に到達した後、涅槃の境界に従い、無余涅槃に入ります。一旦全ての人が阿羅漢の果位を成就した後、この世では仏教の住持がなくなり、残ったのは仏法を聴聞できない衆生であります。従って、この点から見ると、世間の運行について、ひいては仏法の維持と弘めることからみれば、実際には在家の菩薩達こそ主力であり、在家の菩薩達は世の中の全てが正常に運行するように働きかけているのです。また、在家の菩薩達は悟ったことにより清浄の本心を証悟したため、紅塵の中で修行しながら自分を見失うこともありません。ですから、在家の菩薩達は各角度から各階層の衆生と広く接触することによって衆生を摂受する目的が達成され、これこそ本当に仏法を全ての衆生にもたらします。従って、ここからみれば、仏陀が教え導いた道理は解脱の道理だけではなく、必ず仏菩提道もあるのです。つまり成仏する道理もあります。これこそ仏法が広く普及し、全ての衆生に利益を与える根本的な道理であります。
 
我们接下来跟大家再交代一个观念,就是说,佛陀在说法的过程中,何以先说解脱道,再说佛菩提道呢?
引き続き、皆様にもう一つの観念を説明しましょう。仏陀は説法する過程の中で、どうしてまず解脱道を説いて、それから仏菩提道を教え導いたのでしょうか。
 
佛陀先解说解脱道的目的,并不是希望大家,一路从解脱道里面然后一路修,然后接着就修到阿罗汉,接下来就到无余涅槃的境界去了,这个不是佛陀的本意。因为一旦到了无余涅槃的境界之后,这个人是没有办法继续再跟众生有任何的接触了;因为无余涅槃就是灭尽了一切,出离三界了。所以从这点道理来看,佛陀教导解脱道的目的,其实一方面在于说,告诉所有跟着修行的佛弟子,让大家看看解脱道其实并不难的;只要大家在这一世按照佛陀的教导,精进的修行,解脱道的成就并不难,并且也有确实的果位可以自己来验证。可是,这个就如同我们现在讲的话锋一转的状况一样,佛陀在教授了解脱道之后,接下来也必然会因为希望大家更发大心,更帮助所有的众生的地位而着想;佛陀接下来,就必然一定会教导大家佛菩提道。教导佛菩提道这个道理之所以在解脱道后面,我们刚刚提的除了是让大家快速建立信心之外,还有一个根本的关键是在于说,透过解脱道的修行,我们可以快速的消除自己的性障。一旦这些性障如果消除得很薄弱的时候,进一步,如果在有机会碰到善知识的时候,接下来要能够参禅的时候,才能够参禅得力。并且更重要就是说,即使我们有机会能够破参明心,能够找到清净本心,这个状况之下,如果我们的性障本来就已经很薄弱的话,我们在破参明心之后,就很容易可以观行到真心的种种的功德,并且真实的受用这些的功德;并且透过受用这些功德,更加的领会真如佛性的种种的状况;这样子,我们在佛菩提道上的修行,就会因此而减少了许多的障碍。我们有一句话就是,修行,比方说破参明心的这些道理,我们把这些道理叫作主要的行门,叫作主要的方法;其他的,像我们刚才讲的要消除性障,要减轻烦恼这些的事情,我们把它都叫作次法。在佛菩提道上的修行来讲,次法实际上占着非常重要的地步。所以,这个其实就是为什么佛陀在传授我们整个佛陀的教义的时候,会先用解脱道当作开始,然后再跟大家谈佛菩提道。
仏陀がまず解脱道を解説する目的は、人々が一筋に解脱道を修行し、そして阿羅漢の境界に到達して、それから無余涅槃に入ることを望んでいるわけではないのです。これは仏陀の本意ではありません。無余涅槃は全てを完全に滅し、三界を出離することで、一旦無余涅槃の境界に達すると、衆生といかなる接触することもできなくなります。従って、この道理からみれば、仏陀が解脱道を教える目的は、修行するすべての仏弟子に解脱道が実際には難しくないと伝えたいのです。人々はこの一生においてきちんと仏陀の教えに従い精進し、修行すれば、解脱道を成就することが難しくなく、尚且つ自ら確実な果位を得ることができ、自ら検証することもできます。しかし、話の向きをさっと変えるように、仏陀は解脱道を教えた後、人々がもっと大心を発起するのを望んでおり、全ての衆生の地位を助けたいと思い、解脱道に引き続き仏菩提道を教え導くのです。仏陀が解脱道を教えた後に仏菩提道の道理を教えるわけは、さっき言及したように人々が速やかに自信を確立する他に、もう一つ重要な鍵があります。それは解脱道の修行を通して、我々が速やかに自分の性障を取り除くことです。性障がとても薄弱になるまで取り除いた際、更に善知識(仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人を指していう)と出会うことで、参禅する時にその助力を得、悟れるようになるのです。また、よりいっそう重要なのは、例え我々に悟る機会があって、清浄の本心が見つけられたとして、その時既に元々の性障が薄弱となっていたら、我々が悟った後で真心の色々な功徳を容易に観行することができるでしょう。またこれらの功徳を本当に受用することができます。これらの功徳を受用することにより更に真如仏性の色々な状況を会得し、我々の仏菩提道の修行は多くの障害が減少されるのです。修行について、例えば、悟りに関する道理について、我々はこれらを主要な行門と言い、即ち主要な方法と言います。その他に、さきほど言及した性障を取り除く、または煩悩を減軽することに関して、これらのことを次法と言います。仏菩提道の修行において、次法は非常に重要であります。ですから、仏陀が我々に仏法の教義を伝授する際、はじめにまず解脱道を教え、それから仏菩提道を教えているのです。
 
所以,总结今天跟大家所分享的内容:学佛是不是要舍离一切的欲望呢?如果我们有先建立好正确的认知,也就是我们为了修行才来谈到对治欲望的话,那么出家就是很简单的,按照出家的规矩来做;至于在家的话,是不必远离这些欲望的;可是在家的菩萨,希望大家更积极进取,真的破参明心之后,才能够在五欲中行走自如。
皆様と本日分かち合った内容をまとめてみましょう。仏教を勉強するために全ての欲望を捨てる必要があるかという問いについて、我々がまず正確な認識を持てたとするならば、つまり、我々が修行のために欲望を対治するのであれば、出家が簡単な方法であり、出家の規則に従って修行を行います;在家であれば、欲望から遠く離れる必要はありません。在家の菩薩として社会と積極的にふれあいながら真に悟りを得ることでこそ、五欲の中で自由自在に歩むことができるのです。
 
阿弥陀佛!
阿弥陀仏!
 
------正纬老师
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